祈りと黎明への歩み
幸生の歴史を辿ると、どの時代も、
山から恩恵を頂いて暮らしていたことが分かります。
山は信仰対象として畏怖される存在でありながら、
恵をあたえ幸生の人々を守る、
母のような存在でもあるのです。
かつて国内産業を
支えた、
幸生銅山
幸生は、江戸時代初期〜昭和まで、日本有数の銅山として栄えた地でした。
1682年、幸生村の名主才三郎が発見し、大阪商人の泉屋吉左衛門が開削。
幕府直轄の銅山となり、たいへん栄えたそうです。
全国各地から商人が訪れたため、全国の文化が幸生に伝わり、住民たちは山暮らしながら垢抜けていたとか。人々を祝福する伝統芸能・幸生大黒舞も、この時期に伝わってはじまったと言われています。
明治に入ってからは、大戦のたびに産出量を増やし、日本国内産業を支える重要な鉱山となりました。そして第二次世界大戦後、貿易の自由化などによって経営が悪化し、1961年、閉山しました。
銅山は、採ったらそこからまた再生するわけではありません。
しかも、どこにどのくらい埋まっているかは、実際に掘ってみないと分からない。
「お宝や幸せは、じっと待ってても出てこないから、自分で見つけ出すんだ」という精神が、今でも幸生の魂に引き継がれているように思います。
幸生の歴史を辿ると、山の恩恵を受けて発展をし、文化が生まれたことがわかります。幸生牛もまた脈々と伝わる歴史と同じように、山の恩恵を受ける牛として新たな歴史を歩みます。
多くの山伏が祈りを
捧げた、葉山信仰
山形県寒河江市の最高峰であり、かつては出羽三山のひとつに数えられていた葉山。幸生に連なりそびえ立つ大きな霊山です。
葉山は「端山」という字を当てることもあり、それは「あの世とこの世の端」という意味であったと言われ、さかのぼること奈良時代から祖霊信仰の対象でした。
葉山に宿る祖先の霊は、子孫の繁栄を見守る農耕の神様となり、人々の信仰を集めました。人々は葉山の祖先に感謝をしながら、五穀豊穣を祈ります。
葉山に祈り、葉山の神の加護を受ける幸生は、豊かな水源や自然に恵まれています。夏と冬の寒暖差が厳しい気候でありながら、わらびや米、果物などが豊富に育つのは、葉山が与える恩恵によるもののように感じます。
また葉山は「母」の象徴として、多くの山伏が訪れ、祈りを捧げました。
葉山の中に入った者は胎児となり、新しい魂をえて転生し、生まれ変わるのだといいます。
葉山に訪れると独特な厳粛さを感じるのは、この葉山信仰の歴史からきているのかもしれません。
この葉山の山裾で育つ幸生牛は、神秘性に満ちた葉山の愛情と洗練さを受けて育ちます。幸生牛は、葉山にいる神様に見守られて育つのです。